日本のことをインターネットで見ていたら、乗り物で年寄りに席を譲るべきか譲らざるべきかという、なんとも馬鹿馬鹿しい議論が出ていた。譲らざるべきの主な理由は、自分はまだ年寄りではない、余計なお世話と厭な顔で拒否する人がいるから、というものだった。拒否した人は、たとえ乗り物で座らないことが主義であったとしても、年寄りに見えたから席を譲られたのであり、座らない理由を言って好意に礼を言うべきなのに、そんな礼儀も知らずに歳だけとった人間が増えたのかと情けなくなった。イタリアではこうした議論は絶対に起こらない。気持ちを大切にするイタリア人は人の好意を素直に喜んでくれるから、好意を示したほうも気持ちよくなり、また好意を示す。好循環である。
実際に体験したり見たりしことをいくつか挙げてみよう。
―日本からの友人夫婦たちとマッターホルンのイタリア側の麓のチェルヴィノへ行った。バス停からホテルまでだらだら坂が100mほどあったが、二人の若者が奥さんたちのスーツケースをホテルまで運んでくれた。頼んだわけではない。
―ニースからコモへの列車は、国境駅のヴェンティミリアとミラノで乗り換えになる。こちらの駅のフォームは低く、列車の床とかなりの段差があるし、ヴェンティミリアとコモでは階段の上り下りがある。だが、家内は一人のとき、荷物の積み下ろしや荷物をもっての階段の上り下りをしたことがない。黙っていても必ず誰かが助け舟を出してくれるからである。
―僕がニースから帰ったとき、ミラノへの列車が遅れてコモへの列車との乗り換え時間がわずかしかなかったが、同じコンパートメントにいた青年が僕の荷物を持って走ってくれた。
―やはり列車でのことで、同じコンパートメントの向かいの席にいたのは中学生の男の子と、その母親、そして、お婆さんだった。お婆さんが先に降りたとき、その男の子は、荷物を降ろすのを手伝ってあげなきゃ、と、追いかけていった。
―コモはイタリアの代表的な観光都市のひとつでありながら、駅にエスカレーターがない。ミラノ方面へ向かうときはいいが、ミラノからの場合は階段の降り上りが出てくる。だが、こちらのフォームは低く、フォームのはずれに駅員が荷物を運んだりするために板が渡してあるところがあるので、我われ夫婦は重い荷物のあるときには違反承知でそこを利用している。本来ならば横断が見つかるとミラノからの特急運賃よりも高い罰金を取られるが、たとえ駅員がいても、こちらが年寄りなので何も言わずに見逃してくれる。(2年ほど前にエレベーターが設置された。)
―やはりコモの駅でのことで、フォームが工事中で上記の線路の横断のところに行くことが出来ず、仕方なく階段を使ったが、身体の大きなイタリア人が自分も荷物があったにもかかわらず、僕の荷物も持って階段を上ってくれた。
―コモの町を自転車で走っていた40がらみの女性が段差に前輪をとられて転んだ。たちどころに数人が駆け寄って女性を助け起こし、携帯電話で救急車を呼ぼうかという人もいた。
見て見ぬふりという言葉があるが、日本とイタリアとでは逆のことが多いように思う。イタリアでは事が自分に及んでこない限り、他人が何をやっていようが、とやかく言わない。だが、困っている人がいると、必ず誰かが助け舟を出す。一方、日本では、自分とは無関係でも、他人のことをとやかく言う。だが、困っている人がいても知らん顔である。