イタリアは、戦争をしていない。

Mussolini

僕が住んでいるコモからスイス側の国境の町キアッソーまでは5キロ、電車ならひと駅、コモの市バスも利用することができる。そんなに近くても外国のスイスにはコモでは売っていないものがあったりするから、たまにはキアッソーに買い物に行く。イタリアと国境で接している国はスイスのほかにフランス、オーストリア、スロヴェニアがあるが、この3国は

イタリアと同じEC国だから、列車で国境越えをする場合、普通はドガーナ(税関)やパスポートのコントロールはない。だが、スイスはECに加盟していないから、行きはスイスの、帰りはイタリアのドガーナとパスポートのコントロールを受けることになる。大概は行きも帰りも係り官が手で「どうぞ」の合図をするだけだが、スイスからイタリアに入るときにドガーナで持ち物はもちろん、財布の中まで調べられることがある。持ち物の場合は、麻薬がオランダから南下してスイス経由でイタリアへというルートがあるため。財布の場合は、イタリア人が資産隠しでスイスの銀行を利用することが当たり前になっているためである。
このキアッソーで帰りの電車を待っていたとき、ドガーナのチーフから、日本は第二次大戦が終わったことを記念して何かお祝いをするのか、と聞かれた。こちらは、鬼畜米英、撃ちてし止まむ、進め一億火の玉だの挙句の果ての敗戦で一億総懺悔だから、一瞬えっとなったが、イタリアではムッソリーニのファシズムと北イタリアを占拠していたドイツのナチズムから解放された日として4月25日が祝日になっている。彼に言わせると、戦ったのはムッソリーニとその一派のファシストで、イタリアは戦っておらず、むしろ彼らに占拠されていたのだから解放されたのだということだった。

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ムッソリーニの旗色が良かったころには何千何万もの人々が彼の演説に熱狂歓喜していた。

Comune

ムッソリーニが中立国スイスへ逃れようとして数日間滞在したコモの市役所。元は貴族の屋敷。

だが、ムッソリーニの旗色が良かった頃のフィルムを見ると、広場に集まった何万もの人たちが彼の演説に熱狂、歓喜をもって応えている。もちろん当時でもレジスタンス運動はあったが、国民の多くは旗色が悪くなったから連合軍側に鞍替えをしたところが多分にある。
当のムッソリーニは永世中立国のスイス経由でスペインへ逃れようとして、コモ湖の中ほどのメッツェグラというところでパルチザンにつかまり、愛人クラレッタとともに射殺された。彼を描いたTV映画によると、もとは17世紀の貴族の屋敷だったコモの市役所(現在も)に数日間滞在し、そこからドイツ軍の兵士に扮装してトラックでコモ湖西岸の道をスイスへ向かって北上したことになっていた。発覚の原因は、ズボンの色が手引きをしたドイツ兵のそれと異なっていたからだそうだ。
「解放された」イタリアは国民投票によってサヴォイア家が支配するイタリア王国からイタリア共和国に変わり、サヴォイア家はムッソリーニに政権を委ねてファシズムに加担したことを理由に、末代に至るまで国外追放になった。しかし、1962年生まれのムッソリーニの孫娘アレッサンドラ・ムッソリーニは追放どころか1986年に政界に入り、2003年には極右政党の党首になった。
戦後60年を経過した時点で、当時のイタリア王ウンベルトⅡ世はこの世にいないからもういいだろうとサヴォイア家はイタリアに戻ることが許されたが、まだ追放されていた頃、トリノのレストランの話好きのウェーターに、ムッソリーニの孫娘は国会議員をやっているのにサヴォイア家は息子や孫もイタリアに帰れないのはヘンではないか、と聞いてみた。と、思いもよらない返事が戻ってきた。
「サヴォイアは税金という名で庶民から盗み、膨大な富をつくった。息子も孫もその恩恵を受けてきた。だが、ムッソリーニは盗まなかった。」
ムッソリーニには遺産というものがなく、遺族は年金で暮らしていたそうである。ファシズムについてはNOでも、「盗まなかった」という理由で、イタリアでの彼の評判はそう悪くはない。