男性の敬称がシニョーレ、既婚女性の敬称がシニョーラ、未婚女性の敬称がシニョリーナであることは大概の人が知っている。シニョリーナと聞くと若い女性を想定するが、80歳でも未婚ならばシニョリーナである。また、耳で聞くと同じシニョーレでも頭文字を大文字にしてSignoreと書くと神様という意味になり、神父が神に祈るときにはこのシニョーレだが、手紙などでは相手に対してやはり大文字を使うから、その場の判断ということになる。
名前などの前につけた場合は日本語の「さん」にあたるが、イタリアでは相手を苗字で呼ぶ場合と名前で呼ぶ場合があり、目上の人や、対等でも親しくない人はシニョール(シニョーレがシニョールになる)やシニョーラをつけて苗字で呼び、対等の親しい人や目下の人は何もつけないで名前だけで呼ぶことが多い。したがって、シニョールやシニョーラをつけて名前を呼ぶケースはほとんどない。ついでに記すと、チャオを目上の人や親しくない人に向かって言うのは失礼に当たり、下手にこれを使うと、お前に気安くチャオといわれる筋合いはない、となりかねない。
シニョーレも、シニョーラも、ただの呼びかけ言葉として使う場合と、それなりの意味をこめて使う場合があり、八百屋や魚屋が「奥さん、今日はこれが安いよ!」のときのシニョーラと、「あの人はシニョーラだ」というときのシニョーラでは、意味がまったく違う。今の若い人にはそうした気持ちはあまりないようだが、50歳過ぎの女性にとっては後の意味でのシニョーラと呼ばれることがひとつの夢といってもいい。
結婚をして夫婦ともども一生懸命働いてお金を貯め、親族からも借金をして小さなバール(お酒も飲める喫茶店)の権利を買ったとする。そこでまた夫婦ともども一生懸命働いて借金を返し、お金も貯めて、もっと大きなバールを買い、そこでまたを繰り返して、ついにはそこそこのホテルのオーナーになり、地中海岸のサンレモあたりに別荘、10mほどのクルーザー、2・3軒の不動産も買ったとする。それでも後の意味でのシニョーラとは呼ばれない。シニョーラと呼ばれるのは子供が大きくなって結婚をし、そのまた子供が大きくなって結婚をし、そのまた子供が、となるぐらい時間がかかる。苦労の最中はもちろん、たとえお金持ちになっても、そこに至る痕跡が残っているあいだは駄目で、痕跡がまったく無くなって初めてシニョーラと呼ばれるようになる。したがって、普通の人がシニョーラと呼ばれるようになるには最低3代かかるということで、だからこそ夢なのである。
彼女と最初に会ったとき、家内がシニョーラ・レオーニと呼んだら、いつも名前だけで呼ばれ、シニョーラをつけて苗字で呼んでもらったことがなかった、と涙を流さんばかりに喜んだ。結婚したとたんにご主人を亡くし、未婚の母のような辛さを味わってきたからかもしれないが。