イタリアは若い国

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イタリアは若い国、というと、ローマの歴史を思い浮かべて、そんな馬鹿なと思うかもしれない。だが、1861年にヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世がイタリア王を宣言して独立国家になるまでは、自治都市が90あまりも林立するヨーロッパの中の一地方だった。

しかもこの時点で全土が完全に統合されたわけではなく、ヴェネツィアとローマが最後まで抵抗し、1866年にヴェネツィアが組み込まれ、1870年にヴィットリア・エマヌエーレⅡ世の軍隊がローマに入城して、1871年にやっと完全統合が完了した。

したがって、一個の独立国としては150年ほどしかたっていない。それまでのこの地の歴史は、ローマの時代を除けば、他民族や周辺他国に支配され続けた歴史で、内に向かっては統合のための戦争、外に対しては独立のための戦争を経た末の国家成立だった。そのために、自然発生的な日本と異なり、イタリア人は国意識がきわめて強い。

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イタリア統合の立役者ジュゼッペ・ガリバルディ隊長の像と、ミラノとの戦いに勝利したことを記念して1192年に建てられた高さ40mのポルタ・トーレ(塔門)、またの名をポルタ・ヴィットリア(勝利の門)。コモの旧市街の正門である

Porta Torre

ポルタ・トーレを町の内側から見たところ。

ヴェネツィアからミラノへ向かう高速道路には、パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、ブレッシャ、ベルガモが、また、ボローニャからは、モデナ、レッジョ・ネレミリア、パルマ、クレモナといった人口10万から15万の町が40キロから60キロの間隔で並んでいる。これはひとつの自治都市のテリトリーの直径が40キロから60キロだったことを示すもので、このテリトリーがもとになって今の県が出来上がった。イタリアの町がそれぞれ固有の地場産業と伝統文化を持っているのは、ほんの150年ほど前までは隣の町は外国同然、時には敵対関係にあったからで、イタリアという国を褒めても他の町のことは不用意に褒めないのが得策である。

あらためてこの地の歴史をさかのぼると、まずはっきりとした形で今のイタリア各地を支配したのはギリシャで、紀元前8世紀中ごろのシチリアを皮切りに各地に植民地を建設した。イタリアの主要産品オリーヴ油は世界の生産量の5分の1を占めているが、オリーヴの木を移植したのはギリシャ人だった。その景観の美しさから「ナポリを見て死ね」という言葉のあるナポリもギリシャの植民地で、ネア:新しい、ポリス:都市国家、すなわちネアポリスというギリシャ語が転じたものである。
このギリシャの植民地の時代からローマ帝国の時代へは比較的スムーズに移行したが、西ローマ帝国が西暦476年に滅亡した後はいろいろな民族が侵入し、各地を支配した。

ミラノを州都とするロンバルディア州もその名は500年代中盤に北イタリアを支配したゲルマン系のロンゴバルド族からきたものだし、南征を企てたドイツのフリードリッヒ赤ひげ大王、すなわちフェデリコ・バルバロッサが僕の住むコモの皇帝だったこともある。ちなみにフェデリコはフリードリッヒ、バルバはひげ、ロッサは赤いのイタリア語である。

Castello Baradello

ミラノとの3回目の戦いに敗れて破壊され、塔だけが残っているバラデロ城。しかし、このバラデロ城の塔は今もコモのシンボルである。

コモは1100年代にミラノと3度戦っている。1度目は負け、2度目はフェデリコの下で勝ったものの、3度目はミラノを盟主とする北イタリア同盟(レガ)とのレニャーノの戦いに敗れて、1186年にミラノの属国になった。そのために生粋のコモ人(コマスコ)は今もミラノが嫌いだし、ミラノ人は敗戦国のコモを馬鹿にしているところがある。つわものどもの夢の跡のレニャーノはミラノからマルペンサ空港に向かう途中にあるが、今はミラノのベッドタウンと化して、当時の面影はまったく無い。
その後のコモはフランス、スペイン、オーストリアなどに支配されたが、フランスはコモに織物産業を、また、オーストリアのカルロ6世は家具産業を持ち込み、それらは今もコモの代表的な産業として残っている。しかし、スペイン統治ではゴロツキを雇って税金を取り立てるなど、ひどいものだったたらしい。